ポリフォニー・オブ・ライブズ

ようこそ。新しく生まれる世界へ。楽しく自由な仲間たちによる。

勇気について

勇気とは、受け入れることです。自分のまわりに広がる世界をそのままで受け入れることです。手にとって食べることです。未知の果実酒を飲むことです。

私たちは不安の中に生きています。でも不安と同時に勇気という言葉が生まれたのだと私は思います。不安の暗闇の中から勇気という光が生まれ、輝き始めたのです。不安や恐れのないところに勇気は存在しません。

勇気とは恐れに適切に対峙することです。勇気のないものはむしろ恐れを見ない。不安を感じないふりをします。だから勇気とは恐れを持たないことではなく、恐れをきちんと認めることです。恐れを認めるからそれを乗り越える術を得ることができるのです。臆病者は恐れを認めることができません。だから、彼らが勇気のある者を眺めると、恐れを持っていないよう見えるのです。

恐れの根源は知性の届かない深みにあります。だから物事を頭でだけ考える人は恐れに対峙することができないし、その支配から逃れることはできません。いっぽう勇気は知性の支配を受けません。だからこそ恐れを乗り越えることができるのです。

勇気の人は他人からの賞賛を必要としません。自己決定的に考え行動します。他人の賞賛を必要としているうちは恐れを乗り越えることができないことを知っているからです。

自分自身の真の人生を生きてください。それが勇気の本質です。それは、真の人生とは新しいものに向かった一歩を常に踏み出さなければならないから。そして新しいことに一歩踏み出すには勇気が必要だからです。

新しいこと

新しいことを始めるのには勇気が必要です。たとえばIAに聞いて「99.9%失敗するからやめた方がいい」という答えが得られたとき、あなたならどうするでしょうか?IAは過去のビッグデータを参照していたとします。その情報のすべてを使ってそう答えたとします。もちろんあなたよりも情報量が多いのは間違いありません。あなたはどうするでしょうか?IAの言うことを素直に聞きますか?それでも新しいことをあなたは始めることができますか?

状況にもよるでしょうが、もし、あなたが自分の人生を大きく変えたいのなら、現状に満足をしていないのなら、そうであればそうであるほど、勇気をだして過去のデータによらず新しいことに一歩を踏み出してください。

スーパーコンピューターを使って過去の経験をどんなに緻密に分析しても「新しいことを始めるべきか否か」に対して正しい答えを得ることはできません。なぜなら新しいからです。どんなに過去に似ていても新しいことは「過去にないこと」を含んでいるからです。でも、過去にある情報で「良い」「悪い」、あるいは「損か」「得か」を決める人、あるいはそうすることが正しいと思っている人は、過去に起こったことが永遠に繰り返すと無意識で信じて、IAの言うことに躊躇なく従うでしょう。その場合はAIがすべてを決める神になってしまいますよね。逆に言うと、過去の情報(AI)に従うと、創造のない機械的な世界に人間が閉じ込められてしまうことになってしまって、ちょっと怖いと思ってしまうんですが、みなさんはどう思われるでしょうか。

では、過去の情報空間(マトリクス)を抜け出すためにはどうしたらいいでしょうか?どうしたらいいでしょうか?って聞かれるといろいろ考えてしまうと思いますが、逆なのです。一生懸命考えるのではなく、むしろ考えることを止めなければいけません。思考を止める。それが頭から心に判断の主導権を譲るポイントなのです。頭ではなく心に判断させるのです。バランスが取れた人であれば、頭から心へのパワーシフトは自然に起こりますが、今のご時世、頭ばかりの人が多いようで、頭の判断にみなさんしがみついていますよね。

新しいことを始めるコツは考えず(考えてもいいですが、縛られないということ)に、心のフィーリングに判断を預けることなんです。これは頭ではなく心が担当する仕事ですから、心がしっかりしていることが大切です。そして心がしっかりしているかどうかのひとつの判断基準は勇気を出せるかどうか。勇気。みなさん心の中に持っていますか?

過去のノートより

日本人に捧ぐ

  • 人は考えにしばられる
  • 人は考えによって違う世界に住む住人となる。
  • 人はみな違う考えをもつがゆえにばらばらである。
  • でもそれでいい。それをしばってはいけない。
  • 行く先はバラバラで良いが根っこはつながっていなければならない
  • 根っこは見えない。自分の内にあるがゆえに
  • 根っことはアイデンティティ
  • 根っこは抜かれ得る
  • 根っこを否定するもの/抜かれたものは必ず倒れる

戦わずして。ただ眺める。

真実と嘘の違いとは何でしょうか?身の回りにいろいろな情報があり過ぎて、何が真実で何が嘘か、吟味する時間もないし、判断する材料がない、という状況に置かれている人が多い中では、どうせわかりっこないし、愚問のような気もします。たとえ嘘であっても多くの人が信じてしまえば、世の中はそれが真実であるかのように動いてしまうし、結局それを信じている人にとっては、真実のほうが嘘に見えてしまうわけで、世の中を支配したい人にとっては、それが真実かどうかはどうでもよくて、嘘であってもそれが都合よく使えるものであればそれでよいのかもしれません。でもそうなると、真実か嘘かという問題は、おおむね個人の趣味・こだわりレベルの問題になり下がってしまいます。

真実と嘘はやはり全く違うものなのです。もっとも大きな違いの一つは、真実は何もしなくても真実であり、嘘は真実を装うために努力が必要だということです。

真実は、真実であるということ自体がその生命の源なので、永遠に消えることはありません。誰の努力も何の努力も本来は必要ないものです。いっぽう嘘はつき続ける努力が必要です。なぜなら努力を辞めた途端に真実に取って替わられるからです。

だから、嘘は必ず自分を真実であると主張する必要があります。真実である理由を作りだしそれを説明します。そして真実を責めます。真実のほうを「嘘」だと責めます。また、真実を隠します。

だから世の中に嘘がはびこっているのであれば、嘘を人に信じさせる努力をしている勢力が多く存在するということになります。せっかく頂いた命をもっと良いことに使えばいいものを、一時的な快楽・利益のために、消える運命にある嘘をつくために多くの無駄なエネルギーを使っているのです。

嘘は真実の影であり、それ自身いのちを持っていないので、いずれ消えていきます。だから、どんな情報でも100%否定しないでください。どんなに小さな可能性でも真実は残り、どんなにもっともらしくても嘘は滅びます。

 

真実と嘘のたたかい

参政党いいですね!youtubeにアップされた街頭演説の動画を何本か観ましたが、神谷さんもよしりんさんも「魂が震える」演説をされています。政治系の内容については、あまり語らないようにしていましたが、今回は何か書いてみようと思った次第です。

参政党は2年前にできた新しい政党で、今年7月の参議院選挙に名乗りをあげ、現在、日本各地で街頭演説を行っているようです。選挙と言えば政策の戦いだと思っていましたが、彼らが持ち出したのは「真の情報」なのです。「真実」を武器として「嘘」に戦いを挑んでいるのです。

これまでこの戦いの構図がつくれなかったのは、世界が「嘘」をベースに成り立っていたからであり、「真実」が表にでれば「嘘」は消える運命にあるため「真実」をいろいろな力で排除してきたからです。

しかし時代は変わります。「陰極極まれば陽に転ず」とあるように、「嘘」が極まって「真実」がどんどん表に現れるようになってきました。参政党の政治参加はその流れに乗った大きなムーブメントの一つだと思います。

これは「真実」の「嘘」に対する戦いであり、眠っているやまと魂を揺り起こす「もののふの声」です。選挙結果はどうなるかわかりませんが、もうこの流れは変わりません。彼らの登場は、日本の新しい時代の扉を開ける常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)となるでしょう。

 

ゴールデンウィーク

明日からゴールデンウイーク。例年通り特に何も予定がないけど、長い休みがあるということだけで嬉しい気分になれる。日本も世界も混乱の中にあるが、それを超えてしまったような軽い感じが、明るい何かが心にあるのです。

それは混乱している状況を見ないようにしているからではなく、混乱を直視することにより生み出されたもののようであり、ある”確信”から生まれるようです。

これまで、何かがおかしいと思いながら、表から見た世界には不思議なほど何も現れない(表からは見えない)という期間を長い間過ごしてきました。環境、政治、経済、学校、教育、食べ物、医療、…etc、世の中のあらゆるものが間違った方向に向かっている進んでいる感じがしているのに、そのまま確実に同じ方向に進んできていた。非常に気持ちが悪い日々でした。

そしてコロナパンデミック、ワクチン、ロシアのウクライナ侵攻。脅かされる国家主権、安全保障、予測される食糧危機、さらなる疫病、個人的には多忙な仕事もこれに加わる。現状どこにも出口が見えない。しかし、何かが明るいのです。

 

小説な好きな人の中には太宰治の『パンドラの匣(はこ)』を読んだ方があるかもしれません。最後の小節に次のようにあります。

  『あとは何も言わず、早くもなく、遅くもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう、この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」さようなら。』

太宰にこの文章を書かせたのは何だったのでしょう?私は同じ心持ちがしています。

 

Don't think, feel!

私たちは自分自身が<生>そのものであることを忘れているのではないでしょうか?

 

私たちが<生>であるなら、生自身が生きるために必要なことなど何もないはずです。それなのに無用な観念を溜め込んでそれについて悩んだり苦しんだりしている。人間の悩みは概ねこの無用な観念からやってくるのです。それらは自覚的であろうが無自覚的であろうが私たちが呼び寄せた観念の種が心の庭で育ったものです。別の言い方をすれば、心に庭で私たち(のエゴ)が育てたものなのです。

 

心の苦しみは、外に原因を求めている限り消えることはありません。もちろん外にあるように見えている人同士で慰め合うことは出来ます。これはこれで大事なことだから否定はしません。でも、解決することはできないのですね。残念ながら。

 

生老病死。仏教では四苦と呼ばれ、お釈迦様はこれと真剣に向き合い悟りを開かれたと言われています。現代を生きる私たちは、それに加えて自分の生きる意味について悩み、苦しんでいます。でもこれは決して普遍的な苦悩ではなく、極めて現代的な苦悩だと思います。なぜならこれはエゴの発達に完全にリンクしており、それは歴史を持つからです。

 

エゴを手放すこと。<生>そのものに帰ること。Don't think, feel!