ポリフォニー・オブ・ライブズ

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日本の霊性

日本文化の根底に無私の精神があります。そしてそれは、気づいている・いないの違いはありますが、私たち日本国民一人ひとりの心にもしっかりと根付いています。「私」(=我)を立たせず、むしろ控えて、自分がスルのではなく、自然にナルことを良しとする精神です。

日本の霊性とは日本文化によって醸成されてきたとも考えられますが、むしろ日本固有の霊性が日本固有の文化を形成してきたと言ったほうが真実に近いと思います。

たとえば川端康成の小説『雪国』の冒頭に「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という有名な一文があります。日本人である私たちはこれを自然に、難無く理解するでしょう。しかしよく見てください。この文章には主語がありません。いったい何が、誰が抜けるというのでしょう?ーー列車?ーー島村(小説の主人公)?、実際はそうなのでしょうけど、それが疑問として起こるでしょうか?そのことが重要なのです。事実として正しく表現するには主語が必要なのかもしれません。しかし、この文に主語(たとえば、列車又は島村)を加えることがむしろ、美しさを損ねたり、冗長さを生んだりして、不必要だと思われないでしょうか?川端も主語をあえて入れなかったはずです。『雪国』はたくさん英訳されていると思いますが、ある訳は"The train came out of the long tunnel into the snow country."となっているそうです。英文では主語が必要だからです。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」これを経験したのは主人公である島村なのですが、島村という個人がたまたま経験したことを述べたい文ではないのです。そうではなく、国境の長いトンネルを抜けると雪国であった、というそのこと自体が、それを経験する人と経験されるものに別れる前に、端的に「あった」ということを言いたいのです。(永井均氏「西田幾多郎」参考)

ここに経験を生み出す主体はありません。日本人が主体性に欠くということは否定的な文脈でしか語られませんが、逆なのです。「私」が立ち上がる前のポジション(純粋経験)に戻れるということが<私>の脱出に、<世界>の脱出に必要であり、それができるのは(あえて言い切りますが)日本人だけです。

一人でも多くの日本人がそのことに気づくよう祈っています。

 

すべての日本国民が幸せでありますように。

言葉に愛と祈りを込めて。