キリスト教の最後の審判の意味
「最後の審判」は、あなたの考えでは最も恐ろしい概念の一つではないでしょうか?それはあなたが「最後の審判」を理解していないからです。
「最後の審判」という言葉が恐ろしいのは、それが「神」に投影されているだけでなく、“最後”という言葉が死を連想させるからです。しかしそれは本末転倒した知覚の際立った例です。
あなたがどんなに自分は罰を受けるに値すると考えたとしても、「最後の審判」は罰を割り当てることはなく、誰もが、何が価値のあるもので、何が価値のないものかを最終的に理解するようになるというだけの意味です。
罰という概念は、正しい心の状態と完全に相反する概念です。「最後の審判」のねらいは、あなたに正しい心の状態を回復させることにありります。
「最後の審判」は、最後の癒しであり、本当の生命の入り口です。(奇跡のコース:2)
すべての日本国民が幸せでありますように。
言葉に愛と祈りを込めて。