ポリフォニー・オブ・ライブズ

ようこそ。新しく生まれる世界へ。楽しく自由な仲間たちによる。

情報の真偽

よく何が正しくて何が間違っている情報なのか分からないよねって話しをよく耳にします。たとえば、コロナワクチンに関する論争では、賛成派と反対派それぞれが、正しい(ように思える)意見を主張しているわけで、議論がどちらかにでも収束していくという気配は今のところないようです。これでは一般の人々にとって判断が難しいのは当然かもしれません(追って時間が証明してくれると思いますが)。ですが、それでもこれは、自分の頭で考えない限りにおいて、ということでしかないのです。

私としては、ワクチン反対派の意見が全く取り上げられなかった(最近は変わってきたかもしれません)マスコミ等における言論を観察するだけでも、賛成派の意見は相当怪しいと察しがついたのですが、仮に賛成派・反対派が平等にマスコミに取り上げられていたとしても、やはり多くの人にとっては、どちらが正しいのか分からなかったのではないか?と思っています。

多くの人は自分の頭で考えていません。これが言い過ぎであれば言い換えます。多くの人は他人の頭で考えたことを自分で考えたと信じていることが多いです。あなたの頭の中はあなたのものですか?他人の言葉・思想・価値観に埋め尽くされてはいませんか?

科学は専門分野に分かれ、それぞれの専門家しか分からないことが多いため、その権威の言うことを信ずるしかないという気持ちは分かります。でも、それって宗教と何が違うのでしょう?神のことはわからない、だから専門家(教祖)の言うことを信じるしかない。。。

人間は一歩たりとも進んでいませんよ。神や宗教に頼っていたことを、科学や権威に無意識に移し替えただけじゃないですか。人は根本的に何かに頼りたい、何かを信じたいのです。ニーチェも「人は何も欲しないよりは『無』を欲する」という言い方をしています。謙虚に自分自身を見直しましょう。外側にある情報の真偽を議論するには、自分が無意識に信じている(欲している)ものを理解する、そこから再スタートするしかないと私は思います。「科学を信ずる」この形容矛盾に気づいてください。。。

 

謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。

昨年は、「世界は狂っている」という思いが、「今日は良い天気ですね」という日常的な挨拶と同じくらい普通に心に去来した一年でした。

一方でそれは、新しい世界を、新しい価値観を持った人たちの作る社会の訪れを告げる声が引き起こした混乱でもあったのだと思います。

狂気に似た社会的な混乱が、今年もマスコミを賑わすでしょうが、それに惑わされないようにしましょう。心を落ち着けて、自分の人生を生きるようにしてください。

今年は、混乱した時代を生きる、そして混乱した情報の海を上手く泳いで、心を強く美しくするようないくつかの「考え方」を少しずつここにシェアしていきたいと思います。

どうか楽しみにしていてくださいね。

メタモルフォーゼの『扉』⑧

誰だって選択していますし、これまでだって選択してきました。例えば、「カレーを食べようか、それともラーメンにしようか?と迷ってカレーに決めた」とか、「どの大学を受験するかで悩んだけどA大学にした」とか、毎日乗る電車の車両、今日着る服、好きだと告白するかどうか、人生常に選択問題が付きまとっています。でもメタモルフォーゼは起きていませんね。何故でしょう?私が言っていることと何が違うのでしょうか?

メタモルフォーゼを引き起こす選択とは?―――それは、「自分がそれを選択した」と言うことなんです。簡単でしょう?でも実際にやったこと(言ったこと)ないでしょう?これがメタモルフォーゼを起こす秘訣なのです。蝶になる秘訣なのです。

選択は無意識になされる場合も多いですし、なんとなく、フィーリングで、人に言われたからとか、過去にやったことがあるからとか、あまり「自分が選んだ」と思ってやっていないでしょう。理由はあってもなくてもいいんですが、選択したときに「自分がそれを選択した」「これに続くことはすべて受け入れる」と言ってください。世界が動き始めます。固定されていた世界が動き始めますから。

たとえば植物の種。机の引き出しに入れておいても芽は出ません。でも水をかけると。。。その水があなたが「私がそれを選択した」と言うことなのです。

メタモルフォーゼの『扉』⑦

人間の場合、メタモルフォーゼには自由意志による選択が必要であると言いました。それは比喩的に『扉』として表現できるでしょう。なぜなら『扉』はあっち側に行きたいときにだけ必要とされるものであり、行こうとしない限り閉まっているものだからです。そして、『扉』は開けるためにあるものだからです。

『扉』は開けるためにある―――このことを覚えておいてくださいね。

さて、それではその『扉』はどこにあるのでしょう?それは選択する瞬間(「いま」)にあるのです。物理的な世界では、扉があるとすれば、それはモノとして、空間のある場所にありますね。そしてその扉のある場所に行って、ノブに手をかけて、ひねって開けます。でも心の中に場所はありませんから、それは時間として置き換わります。空間の「ここ」が時間の「いま」になるのです。そして『扉』を開けることが、「選択」をするということになります。

メタモルフォーゼの『扉』⑥

青虫が葉を求めるのに対して、蝶は花を求めます。そして花の受粉を助け、果実を実らせることに貢献します。蝶が花を求めるのと同じように、花は蝶を求めていると言えるのです。

青虫が青虫のままでは花は実を結べません。花が自分の生命のサイクルを全うするために、花は青虫に蝶になってもらわないと困るのです。花にとって蝶へのメタモルフォーゼは必要不可欠なことです。

自然界ではそれは遺伝子にプログラムされていますから、そのプログラム(神の意志)に従ってそれぞれの生命は生かされています。

でも人間は、人間だけはそこに自らの意志(神から託された意志)を発動させなければなりません。

あなたに対峙する世界が実を結ぶ姿を見たいとは思いませんか?それはまだ現実(実として現れる)にはなっていません。それはまだ象徴(花)のままとどまっています。だからそれを見たいのなら、あなたは蝶にならなければいけません。あなたが蝶にならなければ世界は完成しないのです。

メタモルフォーゼの『扉』⑤

でも、選ぶためにはその可能性がすでに示されていなければなりません。想像できなければ選ぶことができないからです。想像される可能性の選択肢が、心の中に、イメージの中に創造されなければなりません。

心の中の創造。心の中でのイメージの創造。これが一つのキーになりそうです。どうやって心の中でそのような創造が起こるのでしょうか?

それはあなたの周りにある存在の中から立ち現れてきます。すでに存在しているモノがその可能性を示してくれるのです。世界中のあらゆる存在物は、創造する者にとって、象徴として存在しています。それをあなたが受け取ったとき、あなたの創造性は準備されるのです。その象徴に力の大きさや数の多さは関係ありません。創造する者がそれをどのように受け取るかにかかっています。今の例で言えば、蝶の存在そのものが青虫に覚醒を促すということです。蝶の存在が可能性の象徴として青虫に立ち表れるからです。想像の幅をひろげ、新しい選択肢をもたらすのです。そして、青虫に自分は本当は蝶であることを思い出させて、自覚を促します。だから、蝶は恥じらうように羽を閉じるのではなく、自信を持って堂々と羽ばたかなければいけません。

メタモルフォーゼの『扉』④

メタモルフォーゼはなぜ起こるのか―――それはそうなるようにプログラムされているからです。優秀な青虫だけが蝶になるわけではありません。すべての青虫が蝶になるプログラムを持っています。同じように、すべての人間に来る新しい世界が開かれています。ここに選民思想は排除されなければいけません。

人間と青虫の唯一の違いは、人間は自分の意志で選ぶ必要があるということだけです。これが唯一の違いであり、そして最大の違いです。ここで選ぶとは創造するということです。

選ぶだけで蝶になれる。そんなバカなと思われるかもしれません。これまであなたが学んだり経験してきたことがあなたにそう思わせます。だから、この簡単な真実に届くためには、子供のように純粋な心に戻る、あるいはニーチェの言うように子供の精神に変容していく必要があります。

そのためには、どうすればいいでしょうか?いろいろな方法があるかと思いますが、ここでは”引き算”をしていくということをお勧めします。おおよそ人生とは経験の足し算のようなもので、自分の物事に対する考え方、思考回路もその経験に従って変化していきます。正しく(あえて正しくと書きます)経験していくと、人間は丸くなって、柔和になり、子供のように無垢で純粋になっていきます。でもそれはどの個人もつらい経験を乗り越えてたどりつく境地なのです。それはある意味受け身の人生であり、神によって準備された宿命を感謝をもって受け入れていく道でもあります。それとは別に”引き算”の道があります。これは運命への主体的な介入であり、科学的なアプローチとして取り組むことが可能です。すでにいろいろな方法が存在していますが、追って私のアプローチを紹介できればと思います。

一方で、青虫のままでいるという選択も可能です。美味しい葉っぱをずっと食べて生きていきたいならそのように生きることもできるのです。ここに自由があります。