ポリフォニー・オブ・ライブズ

ようこそ。新しく生まれる世界へ。楽しく自由な仲間たちによる。

スピリチュアリティ

私たち人間の本質はそのスピリチュアリティ霊性・精神性)にあります。植物や動物も生命をもっていますが、スピリチュアリティをもっているのは人間だけです。自らを認識し、自我の上に独自の世界を構築する能力とも言えると思います。しかしながら、この力は外から与えられるものではなく、自我のなかで開発されなければなりません。そして、その開発は自分で行わなければならず、自分で行うためには、自分のスピリチュアリティが高まるものであることを知っているか、あるいは、その可能性が何かしら示されている必要があります。

科学技術の発達をもたらしたこれまでの何世紀かは、少ない人々を除いては、スピリチュアリティの存在は否定され、無視されて、人智はひたすらに物質的探究に向けられていました。しかし、逆に考えると、物質的探究を究極まで進めるために、人類はスピリチュアリティの開発に蓋をしてきたと考えることもできるわけです。私はそこに神意すら想像してしまいます。

ですが、いよいよその蓋が外され、天の岩戸が開くときが来たのだと思います。これからの時代はスピリチュアリティが一番大事になってきます。疫病、戦争、食糧危機、自然災害、これらがなぜ起こるのか?これまでの物質的価値観しか持たない人は、メディアが流す情報以上の評価軸を自分の中に作ることができず、時代に置いて行かれることになるでしょう。

一方、スピリチュアリティに目覚めた人たちは、自分で考え、自分の足で歩き、この時代を生き抜くでしょう。そして。愛に目覚め、新しい社会秩序を作る担い手になっていくでしょう。

 

雨と桜

東京は昨日から冷たい雨が続いています。これで満開を過ぎた桜は花を落とすでしょう。残念な気持ちはありますが、すぐに緑の若葉にその場所を譲るのですから、自然のダイナミズムをそのまま見守っていきたいと思います。

生命とは喜びのダイナミズム。流れです。その一部だけを抜き取ってはその生命性は失われます。だから良い写真、良い絵というのは、写し取ったその固定された姿の中に、そのダイナミズムが表現されているはずです。むしろ表現されている写真・絵を良いものとして私たちは認識するのかもしれません。それは写実的と言うよりも詩的です。唯一無二の切り取られた瞬間は、その詩性により普遍性を獲得するのだと思います。

雨は静かに降り続いています。生命を表す色彩も今は外に漏れることに躊躇して、羽を休める鳥のように、ただただ静かにあるようです。

私の精神もいのちの流れとともに放浪していたので、ここで一休み。雨に感謝。

 

つれづれなるままに。。。

前回投稿してから一か月以上経ってしまいました。あれ?そんなに経ってる?と正直思いますが、時は飛ぶように時間が過ぎ去っていくのです。仕事が忙しくなったから?とも思わないでもないですが、やはり加速していますね^^不思議な感じがします。

振り返ってみるとその間にロシアのウクライナ侵攻が起こり、毎日その話題ばかりがニュースで流れています。そしてあんなに騒がれていたワクチン接種の話題がテレビから消えたようです(実際テレビを見ていないのでまた聞きですが)。

それにしても、コロナ=悪・ワクチン=善、ロシア=悪・ウクライナ=善、同じ図式のプロパガンダのような情報を毎日耳にするのが生理的に受け付けなくなりました。まるで同じ個所を何度も繰り返す壊れたレコード(たとえが古いか^^;)を聴いているようで。。。「ゼロ」と「イチ」の間には無限の数があるのですよ。

 まだ時は熟さないのか?

 魂の成長を望む人はまだそんなに少ないのか?

 人は眠り続けたいのか?

 人は子供のままでいたいのか?

 人は自分たちが集団自殺に向かっていることを知らないのか?

 人はタイタニック号が沈みゆくときに、ベッドの上で小さな子供を安心させて眠らせようとする母親がなぜ微笑むことができるのか、理解したいと思わないのか?

 

ああ、つれづれなるままに。。。

 

 

時間に流されないために。。。

1日が半日、1週間が3日、1ヵ月が2週間、1年が半年、つまり昔に比べると時間の長さが半分になってきている気がします。前回「加速する時間」という記事を書きまして、その究極の一瞬をワクワクする気持ちで待っているんですが、一方で、その時間の速さに目まいを感じたり、気持ちが落ち着かなかったりする人も多いのではないかと思います。

そういう場合どうしたら良いでしょうか?一つのアドバイスは「自分をこの3次元世界と切り離した意識で3次元世界に起こっていることを眺める」というものです。わかりにくいと思いますので以下に説明します。

私たちは3次元という時空間にどっぷり同一化して生きています。ナイーブな意識としてはそれで疑問は起こらないと思います。けれど実際私たち人間はそれを超えた存在です。だから3次元時空間に同一化しない(非同一化)視点で見ることも可能なのです。

たとえば、電車の窓から過ぎ去る景色を眺めるときと同じイメージです。外にある川や鉄橋や家々は過ぎ去っていきますが、あなたが手に持っている本はずっとあなたの手元にあり過ぎ去りません。それは「あなた」と「本」は電車と同一化しており、周りの景色とは非同一化しているからです。

または、映画館で映画を観るイメージです。たとえば満足に食べることもできない貧困国や家族が題材で、それが悲劇的な物語で演出されていたとき、あなたはぐいぐい引き込まれて涙を流すかもしれません。その時あなたの心は映画に同一化しているのです。でも映画が終わって映画館から外に出るとすぐに、仲間と一緒においしい食事を食べにいくことはできるはずです。それは映画との同一化が外れているからです。

このように(=非同一化)、あなたはあなたの身の回りに起きることを眺めることができます。その時あなたの背後に、変化しない確かな何かがあるのを感じることができるでしょう。

変化する世の中(=車窓から見える景色)と変化しない自分の中の「何か」(=電車)。その「何か」に意識を合わせてみてください。そうである限り、二度と時間に流され、不安になることはなくなるでしょう。

加速する時間

今年に入ってさらに時間の経過が加速しているように思います。1日が早い。1週間が早い。おそらく今年もあっという間に過ぎ去り、そうなるとあっという間にわが人生も…

これは自分が年を取ったせいではないと思う。なぜなら誰に聞いても否定せずにうなずいてくれるから。

これからさらに時間の経過が加速したらどうなるんだろう?理屈で考えれば究極的には一瞬に収束することになるんでしょうね。もともと宇宙的時間から考えれば、人間の生きている時間など初めから一瞬とみなされるわけだけれど、私たちの感覚的時間としても一瞬ですべてが流れてゆく(=一瞬なので流れる時間はないともいえる。だから別の言い方をすればすべてがそこにある)となるのでしょう。

過去に苦しみ、未来を憂う煩悩だらけの私(みなさんもそうでしょう?)は、スピリチュアルな観点から「今を生きる」「永遠の今を生きる」ということを、どうやったら達成できるかと悩んでいたのですが、なんと時間のほうから一瞬(=今)に収束してくれるのかもしれないのです。

有難いことです。これを私は救済のひとつとして捉えたいと思っています^^

理解できること

人間は自分が理解できることしか理解できません。なんか当たり前のことのように思うと思うのですが、このことをよほど気をつけないと、自分はなんでも理解できると思ってしまうのですよ。何でも理解できるというのは、単なる勘違いなんです。本当はむしろ何も理解できないというほうが真実に近いと思います。適当な例が思い浮かびませんが、たとえば1、2、3、…、100、…どんな数も知っているぞ!と威張っている人がいたとします。残念ながらその人はマイナス側の数はおろか、有理数無理数虚数エリアのすべてが抜け落ちているわけで、数のほとんどが含まれていないですが、もし、彼の理解する数が「自然数」だけであったとすれば、彼は嘘をついているわけではないですし、間違っていないのです。また、「自然数」だけが数である社会の中でも間違いではありません。ただ、それより大きな数の集合を理解している人・社会からは「いや、違うでしょ」とツッコミが入ることになります。

上述の例であれば、彼が状況を理解することは比較的簡単だと思います。が、世の中にはそうでない場合も結構多いのです。そして、それは「自分は理解している」という勘違いから来るのです。これは知識人や学者など、一般的に「優秀な人」であればあるほどその傾向が強いと思います。

尋ね人:「懐中電灯さん、私は世の中に疎くて困っています。まさに世界は暗闇のようです。世界を理解するにはどうしたらよいでしょう?」

懐中電灯:「世界を見ることです。見ることが理解することです。私は世の中の光ですから、私が導いてあげましょう。」「ほら、世界は明るくなりました。もう暗闇は去りましたよ」

尋ね人:「ありがとうございます。懐中電灯さん!でも、あなたは一部しか照らしていないじゃないですか。ほとんどはまだ暗闇の中ですよ。」

懐中電灯はキョロキョロと辺りを見回す。見回したところはもちろん懐中電灯の光があたっている。

懐中電灯:「そんなことはない。どこを見ても明るいじゃないか。私には暗闇が見えない!」

人は謙虚であるべきなんです。ソクラテスの言う「無知の知」を知るべきだと思います。

距離感

 月が地球を回り続けているのは、地球に対する重力と地球を回る速度のバランスがとれているからです。そのバランスが崩れれば、その軌道を離れて永遠に遠ざかるか、あるいは地球と激突するかどちらかになります。

私たちは日々の生活の中で、何かを必要以上に拒絶したり、何かに必要以上に執着したりしてバランスを崩してゆくのかもしれません。

 

つかず離れず。。。

 

物事には適当な距離があるのです。特に人と人の関係において、その適当な距離をつかみ、維持することは、おそらく思っている以上に大切なんです。また、最近では情報との距離感でしょうか。TVとの距離、スマホとの距離というのも大切ですね。自分と〇〇さん、自分とスマホ等々、一度考えてみることをお勧めします。学校でも、家や職場でも、あまり話話にはなることはないと思うので、少し遠ざかった方が良いのか?もう少し近づいたほうが良いのか?自分で意識して考えてみてください。