ポリフォニー・オブ・ライブズ

ようこそ。新しく生まれる世界へ。楽しく自由な仲間たちによる。

理解できること

人間は自分が理解できることしか理解できません。なんか当たり前のことのように思うと思うのですが、このことをよほど気をつけないと、自分はなんでも理解できると思ってしまうのですよ。何でも理解できるというのは、単なる勘違いなんです。本当はむしろ何も理解できないというほうが真実に近いと思います。適当な例が思い浮かびませんが、たとえば1、2、3、…、100、…どんな数も知っているぞ!と威張っている人がいたとします。残念ながらその人はマイナス側の数はおろか、有理数無理数虚数エリアのすべてが抜け落ちているわけで、数のほとんどが含まれていないですが、もし、彼の理解する数が「自然数」だけであったとすれば、彼は嘘をついているわけではないですし、間違っていないのです。また、「自然数」だけが数である社会の中でも間違いではありません。ただ、それより大きな数の集合を理解している人・社会からは「いや、違うでしょ」とツッコミが入ることになります。

上述の例であれば、彼が状況を理解することは比較的簡単だと思います。が、世の中にはそうでない場合も結構多いのです。そして、それは「自分は理解している」という勘違いから来るのです。これは知識人や学者など、一般的に「優秀な人」であればあるほどその傾向が強いと思います。

尋ね人:「懐中電灯さん、私は世の中に疎くて困っています。まさに世界は暗闇のようです。世界を理解するにはどうしたらよいでしょう?」

懐中電灯:「世界を見ることです。見ることが理解することです。私は世の中の光ですから、私が導いてあげましょう。」「ほら、世界は明るくなりました。もう暗闇は去りましたよ」

尋ね人:「ありがとうございます。懐中電灯さん!でも、あなたは一部しか照らしていないじゃないですか。ほとんどはまだ暗闇の中ですよ。」

懐中電灯はキョロキョロと辺りを見回す。見回したところはもちろん懐中電灯の光があたっている。

懐中電灯:「そんなことはない。どこを見ても明るいじゃないか。私には暗闇が見えない!」

人は謙虚であるべきなんです。ソクラテスの言う「無知の知」を知るべきだと思います。